死にたくない、が実現したら? 不死について考える

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00:00 OP
00:54 不死の問題
03:46 不老・病は?
05:24 退屈の問題
07:43 幸福の定義

本日は「不死になりたいか?」というテーマでお話ししようと思います。

不老不死の不死ですね。
死なないようになりたいか、永遠に生きていたいか、というテーマですね。これについて一緒に考えてみてたいと思います。

不死というのはドラキュラとか色々ありますよね。エルフもそうかな、エルフの場合は長命ってことか。
色々な物語の中で検討されたり、悲劇として描かれたりします。SFとか色々ありますが、よくこういう話題が出てくるので、それを皆さんと検討していけたらなと思います。

■不死の問題

例えば、不死になりたいかと言った時に孤独の問題がありますよね。
自分だけが不死なのか、周りの人も不死なのかということを考えてみましょう。
周りの人も永遠の命があるかどうか。

自分だけが死なない場合、孤独の問題がありますよね。
愛する人と一緒に暮らしていても、相手は死んでいく。何度も何度も別れを繰り返すという苦しみがあるということですよね。
だから私も一緒に死にたい、だけど死ねないのが辛い、というのは古今東西いろいろなものが物語の中で描かれています。

孤独の問題があるから、不死になりたくない、永遠に生きたくはないという話です。
であれば、じゃあ周りの人も生き続けたらどうだと。
周りの人もずっと生きていれば別れはないですよね。

皆が生きている状態だとどうですかと言うと、今度は格差が治らないんだよね。
「桃鉄」ってわかりますか。ゲームの「桃太郎電鉄」で、最初の5年目か10年目、15年目かでもう決着は付いているのに、あと延々と99年まで70年間とかで80年間やらされているような感じ。
もう一発逆転を狙えないぐらい逆転ができないくらいシステムができているのに、それをやらされ続けるという問題が起きてしまいます。

銀河鉄道999という漫画があるんですけど、それと一緒ですよね。
機械の体を手に入れて人間は不死になったと。だけどもう上の方がガチガチに固まっちゃって、構造として固まってて、なかなか貧乏人というか、そういう人たちは這い上がれない。
自由も奪われてやっているという状態になるんですよね。

そういうことになるので、強い人、独裁者が死なないというのは問題と言えば問題ですよね。寿命がないっていうのもね。

現実問題で言うと某ジャニーズ事務所の問題ですよね。
偉い人が亡くならない限りその問題は続いていたし、マスコミも口出しできなかったし、告発することはできなかった。
インターネットでもちょこちょこ言う人はいたけれど、ネットの声は潰されていた。ファンたちに潰されてたとか、そういうのがあったりしたので、やはり独裁者を生み出す温床なのではないかということです。

だからなかなか人が死なないというのも問題があるということですよね、ということです。
こういうことを考えます。

■不老・病は?

例えば、不老や病の問題はどうかということです。
死なないんだけれども、永遠に老いていく。どんどん骨が悪くなっていく。
若い時のまま維持できず、体の節々が痛む。痛む状態とか苦しい状態が延々と続くということ。
これはやっぱり苦しいですよね。

200歳とか600歳になって体が常に痛い。痛み止めを飲んでいる間は良いけれど、切れると痛い。
不老とか病の問題抜きであればいいんだけれど、不老、老いることがないとか、病気抜きの僕らの生死というのは想像もつかない。
そうなってくると老いを知らない僕ら、病を知らないというと、そもそも自分たちなのかという問題もあるので、自分たちの生死、私と言えるのかということになるので、うーんって感じですね。

とにかく老いるのであれば死もあってほしい、というのは皆さんの意見かなと思いますね。

でもこれを言うと、では精神疾患というのは発症したら永遠の地獄が待っているんじゃないか、とか言われそうですけども、そういうことではないんですよね。

老いるということは、良くも悪くも繊細さを失っていくので、傷ついていたことに対して傷つかなくなるし、気にしていたことを気にしなくなる。
そして病気というのはある程度薬で治っていくものなので、そういう意味では精神疾患とはちょっと違うなという気はします。

■退屈の問題

あとは退屈の問題ですね。

同じことの繰り返しになるので、最初は楽しいと思っていたことも、だんだんつまらなくなるのではないかということですよね。飽きちゃう。
永遠に生きるということは、飽きとの戦いになってくるので苦しいんじゃないか。

逆に永遠に学べる、退屈がないようにいろいろなことに挑戦し続ける、永遠にいろいろなことを考えて学べた場合、脳ってどうなるの?ということですね。

情報をそんなに蓄えられるんですかとか、蓄えることができた時、知識が膨大になっていった時、忘れることなくいろいろなことを覚えられた時に、それは私と言えるんですか? 同じ自分と言えるのか。

もしくはいろいろなことを忘れていった時に、昔あった記憶は忘れて最近のことだけ覚えていた場合に、200年くらい経った時の自分は全く別の人格かもしれない。それって自分と言えるのかという問題が出てくるなと思います。

これはよく僕も思いますね。
僕も自衛隊だった時の記憶がホントなくなっちゃってて、よく言いますけどここでは。
だからたぶん性格とかいろいろなものが変わっていると思いますね。

あと奥さんと、子供がいない時、恋人の時の記憶がよく思い出せないんですよね。
ちょっとしたときめきみたいなのは時々思い出しますけど、例えば二人でどっか行ったとかね、あれ?いちご狩り行ったっけとか、動物園に行った時にあれ子供いたっけ?という感じなんですよね。

記憶が改ざんされて、あそこに一緒に泊まりに行ったけど、あの時子供小さかったよねとか奥さんと喋るけど、あれ?子供まだ生まれてなかったんじゃないかな?とか奥さんも言っていて曖昧となっていく。
つまり、あの時の自分というのはもう忘れ去られていて、それは僕だけじゃなくて奥さんもそうだと思いますけど、もう死んじゃってると言うかね。そういうことですね。

だから私と言えるのかという問題もあるんだけど、不死だけど生まれ変わっている要素もあるということですよね。

■幸福の定義

あとは幸福の定義ですよね。
不死であれば幸福の定義は変わるんじゃないかという問題もありますね。

自分が弱者であれば、永遠に誰かの世話になるということでもあるし、強者、恵まれた側の人であれば、永遠に誰かを助け続けるということでもあるわけです。
そういうことって何なんだろうということも考えますよね。

あと、そもそも不死でなければ達成できないことなのですか、ということです。
あなたがやりたいこと、今考えている目標は不死でなければ達成できないのかというのも一つのテーマかなと思います。

例えば、僕はYouTubeで精神疾患を皆さんに教えたい精神医学を伝えたい。
そして、その先にある繋がりを達成したりということを僕は目標としているし、夢として持っているんですけど、それって僕が不死じゃないと達成できないことなんだとか、永遠の命がないと達成できないことなのかというと、そういうわけでもなさそうですよね。

例えば、登録者数100万人を目指すためには永遠の命がないとできないかというとそうじゃない。2025年には達成できるんじゃないかと思います。

だからよく思いますけど、自分という概念というのは考えれば考えるほどすごく曖昧だし、僕らと「死」っていうのはなんていうか結構結びつきがありますね。

毎晩死んでいるというか、眠ることは毎晩死んでいることだし、変化するということは僕らは緩やかに死んでいるし、緩やかに生まれ変わっているとも言えますね。

あと結局、遺伝子という形で何か残っているのであれば、それは生まれ変わりとも言えるし、思想が残っていくということは、生まれ変わりのような要素がありますよね。
だから僕の中にある知識や価値観は、自分で作ったものというよりは、先人たちのものから借りてきて、それが自分の中にある。

それをあたかも益田が考えたかのようにここで喋ってますけど、別に僕が考えたわけではなくて、いろんなものを得て、色々な教えや先輩からのものがあって、それを皆さんに右から左に流している感じなんですよね。
診察の中で学んだこととか、患者さんから聞いたことを右から左に流しているという感覚なので、それはある意味不死というのは成立しているんじゃないかとか思います。
わかりますかね?

何か難しい話ですけど、カラオケとかもね。カラオケも歌ってるのは自分のように見えて、でも作詞作曲した人たちのコピーをしているというか。

それってじゃあ自分がやって自分と言えるのか。
カラオケを歌っていられたら、自分が何かをしていると言えるのか。それとも自分ではなくて、別の人がやっていることを真似ているのかとか、別の人に操作されているのかという感覚もあったりするのかなとか思ったりします。

思考実験としては面白いと思いますので、皆さんも不死について考えてもらえたらなと思います。

#精神科医 #益田裕介 #オンライン自助会

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