肉体を通じて仏性を理解する〜枡野俊明住職との対談、Xでバズった宇多田ヒカルに対するコメント

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00:00 OP
02:29 肉体を通じて仏性を理解する
05:53 宇多田ヒカルに対するコメント
08:20 修行をしないと救われないのか?

今日は台風が来てまして、予約した患者さんからキャンセルが入っていて、今時間が空いてるんです。
なのでちょっと、かと言っていつ患者さんが来るかわからないので、ホワイトボードも準備できないので、こんな形で動画を撮らせていただきます。

昨日、枡野俊明住職とお話しができたんです。
住職が書籍を出されるということで、その帯を僕が書くことになって、たまたまですけど。
書籍の宣伝ということも兼ねてインタビュー動画を撮らせていただいたんですけど、是非見てください。
9月の下旬ぐらいにアップできると思います。
めちゃくちゃ緊張してますから。
めちゃくちゃ緊張してて、最初どういう風に話せばいいんだろうということで、住職もお忙しいので、事前打ち合わせという形でなく、いきなり本番で撮ったんですけど、そのあたふたしてる益田も最初、お楽しみください。

序盤はこちらの意見や気持ちを語って、住職のことは僕もウィキペディアで調べたり、書籍を色々読んでいたのでわかっていたのですけど、住職は僕のことをたぶん全然ご存じじゃないと思うので、なかったので説明してすり寄せていって。

でもさすがですよね、後半は。
中盤ぐらいから普通に深い話ができたのかなと思います。
割りと僕は常に全力というか、オープンハートで本当にグッと入っていくような話し方をしがちなんですけど、良くも悪くも、なかなか深い話ができたのかなと思います。

ただ、あまりにも深い話だったので、相手も共感力があるから、そうだよね、そうだよね、と確認し合うような会話が続いてしまったので申し訳ないなと思いつつ、でもそういう動画になっていますので、また観てください。

◾️肉体を通じて仏性を理解する

枡野住職とお話ししていく中で、やはり住職は空間デザイナーというか、お庭を造ることでも有名な住職なんですけど、色々なところで賞を取っているぐらい素晴らしい方なんですけど、でも話の中心はやはり呼吸、座禅の話が多かったです。
座禅など肉体的なものを通じて、どれぐらい仏性を理解したのかという話になりました。

そしてその仏性というか、肉体を通じて学ぶということを感じ取ることは、僕が感じている肉体とのコミュニケーションの仕方と全然差はなくて、住職ら曹洞宗というか、日本の仏教の教えというのが、知らず知らずのうちに僕の中にも染み込んでいて、だからこそ住職のお言葉が確認というか、答え合わせのように感じられたのかなと思います。

ただ難しいんですよね。
この話は何が難しいかというと、元気じゃないとダメだということです。

身体を若いうちに酷使する、トレーニングをしたという経験がないと辿り着かない部分、そんなにキツくなくてもいいと思うんです、誰しもができるようなトレーニングではあるんだけれども、かなり追い込まないといけないトレーニングをしたことがある、とか。
インテリジェンス、知識、経験、元々持っている知的な能力が高くないと難しい、芸術をどう理解していくのかということと向き合ったことがない人にはちょっとわかりにくい世界だと思います。

結局のところ、選ばれた人じゃないとわからないことなんじゃないかと言われたら、そういう批判はあるんじゃないかなという風に思います。
動画をどういう風に皆さんに理解していただけるのかわからないですけど、そういう穿った見方もできるだろうと思います。

それは上座部仏教というか、禅もそうですけど、仏教はトレーニング論でもあるので。
ということはトレーニングができない人たちにとっての救いとは何かと言った時に、なかなか説教臭くなってしまうのが、ある種の欠点というか、弱さなんです。

別に住職は精神科医ではないので、そういう人たちのことまでケアした語り口というのはしてないだろうし、YouTubeにも慣れてないし。
目の前の僕に対して、Zoomでしたけど、声をかけていただいたので、そういう言葉になっていたんでしょうけど。
でも一方で、やはりそういうところはその成り立ちゆえにあるのかなと思います。
もちろん住職はそういう意見だというわけではなく、文化というか、禅というものの成り立ちからそういうことだったりします。

◾️宇多田ヒカルに対するコメント

似たようなことが最近ネットであって、宇多田ヒカルの人生相談の話が、X(旧Twitter)でバズっていたんです。
宇多田ヒカルのコメントです。

Xで「どうそく」という人の、

宇多田ヒカルの人生相談の回答読むたびに、宇多田の頭の良さにビビる。そして怖くなる。宇多田はその頭の良さをもって、自分の人生に降りかかった数々の難題をクリアしてきのだと思うが、逆に言えばそれらの難題をクリアするためには、ここまで頭を良くしないとダメだったんだ…と恐ろしくなる

というコメントがあって、これがバズっていたんですけど、ネットで。
なるほどなと。
皆さんが思う精神医学の片鱗を見てしまってるような感じです。

ちなみにふぅこさん、うちのチャンネルにもよく出てくるふぅこさんがそのコメントでも答えていて、Togetterに出ていました。

ふぅこ:
ヒッキーは精神分析を長年受けて自分と対峙し続けていたせいなのか、答えが考え抜かれ、愛に溢れるもので、以前何度かしてくれたインスタライブ見ててその素晴らしさに本当に興奮して見てた。

と書いてますけど。
ふぅこさんも反応していましたけど、うちの視聴者のね。
でもそうだなと思います。

僕らは才能ある人たちの考え抜かれた答えに魅了されたり、少しでも近づきたい、取り込みたいと思うのと同時に、その才能であるが故に眩しすぎて自分を責めてしまうというか、憧れて取り込もうとするんだけど、嫉妬が邪魔をしてしまうというか、そういうことはあります。
これはよく考えます、僕も。

益田裕介というのは、才能があるのかないのかというのはちょっとよくわからなくて、自分でも。
振り返ってみると、あったのかなという気もするし、やはりなかったのかなという気もするし、よくわからないんですよね、自分のことだし。
でも恵まれていることは確かだと思いますし、でも上を見たらまだまだキリがないわけで、何なのかなと思います。

◾️修行をしないと救われないのか?

じゃあ仏教の教えに戻ると、修行をしないと救われないのかというとそういうわけではなくて、そうじゃなくても救われる、厳しい修行に耐えなくても救われると説いたものもあります。
それは浄土宗、浄土真宗などがそうなんですけど。
結局、弱いからこそ助けを求める権利があるんだということなんです、簡単に言えば。
阿弥陀様は助けてくれるんだということです。

日本の仏教というのは、宗派を超えて、この宗はこうだけど、この宗はこうだという教えがあるというよりは、どちらかというと妙にそこら辺は曖昧というか、多神教的というか、影響し合っているというか、いい加減というか、あるんですけど、そういうことなんです。
浄土真宗だからそうというわけじゃなくて、曹洞宗もそういう考えが一部あるんですけど。
弱いが故に助けを求めてもいいということなんです。
そして助けてくれるんだという確信があって、でも実際世の中はそういう風にできているところもあるんです。

僕らはよく思うんですけど、少しでも良くなるためにその修行をしていくという、自分たちが修行していく、そしてその姿を見せていく。
その中で考え抜かれたものを伝えていくということも精神科医のミッションだと思う。
それは現代の仏教、お坊さんと僕は自負してるので、精神科医も人を救う。

住職は、昔はお坊さんが絵描きもしたし、庭のコーディネートもしたし、色々なことを担っていたんだけど、今はそういう色々なことを担うことはなくなって、分業化が進んで今ここだけやってるんだみたいな言い方をしていて、お庭のデザインをするのは僕しか今は日本にはいないんだよみたいなことをおっしゃっていて、教えてくれたんですけど。

昔のそういう人たち、親鸞、道元、そういう仏教の人、そしてその仲間たちがやろうとしていたことの一部は、おそらく僕ら精神科医がやってると思っているし、そういう中で、もう現代人というのは基本的には神様を信じられなくなってるので、信じる・信じないはどっちでもいいんですけど、弱いが故に助けてもらえるんだということが確信を持てるような社会を作っていく、そのための運動を僕らはしていくのも大事なんだろうなと思っています。

ややこしいね。
ややこしいんですけど、もう一回言うと、追求していくというのも仕事だし、皆を救うということ、皆救われるんだということを確信できるような社会やカルチャーを作っていく、この両面性が必要だとことです。

こっちの方は禅の教えだし、こっちの方が浄土真宗のような教えだろう。
じゃあ浄土真宗と禅の曹洞宗の教えというのは、そんなに分離してるのかというと、日本は多神教であるがゆえに、実はそんなに分離しなくて妙に混濁してるところがあります。
と、いうことですね。

枡野住職や宇多田ヒカルのような攻めていく、そして益田裕介も一部あるでしょう、そういう攻めのもの、と。
だけど一方で救われるというカルチャーも作っていきたいという思いと、そういうことがありますというお話でした。
そんなことを考えました。

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